P24
考えてみれば、内匠頭というのはふしぎな人物である。第一、生きているうちには、まったく無名の存在であった。江戸城松の廊下で、吉良上野介義央(吉良上野介義仲)の眉間を切りつけ、その噂がパッと江戸の町にひろがり、世間の人々が「はて、浅野内匠頭様といえば・・・どこの殿様じゃったかの」と首をかしげているあいだに、彼は、お預け先の大名屋敷の庭先で切腹して果てていた。
P27
浅野内匠頭は幼いころ「又市郎」と呼ばれていたらしい。諱(いみな)は「長矩」。ながいものさしという意味である。おそらく「論語」の「心の欲するところに従いて、矩をこえず」(心のままに行動しても逸脱しない)が念頭にあって、つけられた名前であろう。
ただし、この「長矩」という諱は「忌み名」であって、滅多なことで他人が呼んではいけない。親がつけた大切な実名であり、いってみれば、父祖の系譜に載るための名前である。
P33
この国で、赤穂事件は、忠義の美談になっているが、考えてみれば、これほど不幸な事件はない。
本来、死ななくてもよかった、まっとうな人々の命が、つまらぬ人間のこだわりによって、粉々に打ち砕かれた無惨な事件である。少なくとも、私にはそう思える。
中略~
吉良上野介は「高い官位」にこだわり、また、浅野内匠頭も「ある一つの自意識」をゆずらなかったために、この事件はおきた。浅野がこだわり、一歩も譲らなかった「自意識」とは、
―城持大名
という強烈な誇りであった。
これはあまり知られていないが、浅野家は、江戸時代もかなり平和になってから、めずらしく、
―築城
というものをやっている。あるとき、三代将軍・家光が何を思ったか、長矩の祖父・長直にむかって、
「長直、赤穂に城を築け」
と言った。
~中略~
浅野家は、軍学者をヘッドハンティングしてきて、高禄で召し抱え、城の縄張りを命じた。
巨石をあつめ、家臣を動かして、城を築いた。
この築城につれ、浅野家の藩風は妙なものになっていった。大げさにいえば、普通の藩とは違う「異常な藩」になっていった。というのも、隣の藩では、太平を謳歌しているのに、赤穂浅野家では十五年ちかくものあいだ、戦国時代のような築城工事がつづいていた。
家中の武士には、軍学好きがふえ、なんとなく、気風も粗野な者が多くなった。全国から、兵学者が、ぞろぞろと赤穂にやってきては、軍学を講義し、腕に覚えのある兵法者がやってきては、槍を振り回した。
―山鹿素行
も、その一人である。~中略~
築城をつづけるなかで、赤穂は、いやに硬派の藩になっていった。
そして、内匠頭は九歳で祖父の築いたこの城をつぎ、十七歳ではじめて城に入った。
「城持大名」という強い自意識が、若い内匠頭の心を支配していったのである。~中略~
私には、このような意識が、浅野内匠頭にも大石内蔵助らにも共有されており、のちの刃傷事件や吉良邸討ち入りの伏線になっていった、と思えて仕方がない。
P43
「殿様の通信簿」は、最後に、内匠頭の人物評をまとめている。これも現代語に訳すが、なかなか手厳しい。注目すべきことに、大石の態度についても厳しく批判している。
~中略~
内匠頭は「女色にふけるの難」があり、「淫乱無道」(原文)だ、と、はっきりいっている。
そのうえ、このままでは「家を滅ぼす」という、恐ろしい予言まで残している。そして、批判の矛先は、大石たち家老に向けられている。
「なぜ若い主君が色に溺れるのを黙ってみているのか、なぜ諫めないのか」
ととがめ、家老の大石内蔵助と藤井又左衛門を、
―不忠の臣
として、名指しで非難している。
P44
実は、もう一冊、「殿様の通信簿」に近い書物が伝わっている。「諫懲後正(かんちょうこうせい)」という大名の行状を記した書物であり、やはり東京大学史料編纂所に所蔵されている。
この書物にも、浅野内匠頭の行状記がある。「土芥寇讎記」の約十一年後、元禄十四(一七〇一)年春に書かれたもので、内匠頭が刃傷事件をおこす直前、まさに一月か二月まえに、かれの行状をまためた機密報告である。
二十四歳の内匠頭は「奥にひきこもり、女と戯れるだけ」と書かれていた。それから十一年がたち、三十路に入った内匠頭は、視野の狭い短慮な人物として、史料上にあらわれてくる。
厳格にすぎ、律義一途な男、とされている。「諫懲後正」の一部を抜粋して訳す。
~中略~
―すでに、この家は危ない
そういう噂がたっていた、というのである。
「赤穂浅野家は近いうちに改易になるだろう」
吉良上野介の眉間に切りつける以前から、世間では、内匠頭のことを、そう噂していた。
P46
内匠頭の母親は鳥羽藩内藤家(三万五千石)から嫁してきたが、その弟、つまり内匠頭の叔父は重要な人物である。
この叔父は内藤忠勝といったが、ある事件をおこし、
―切腹
になっている。しかも、この事件というのが、内匠頭とまったく同じようなシチュエーションでおきている。
「松の廊下の刃傷事件」からさかのぼること、二十一年前のこと、芝増上寺で将軍家綱の法事があり、この叔父は、何を思ったか、刀を抜き、同役であった丹後宮津藩主永井信濃守尚長(なおなが)を刺殺してしまった。このとき内匠頭は十四歳。思春期のた だなかであった。おそらく、彼の脳髄には、叔父の殺人と切腹という強烈かつ異常なトラウマが残ったに違いない。
殿様の通信簿
磯田 道史 (著)
朝日新聞社 (2006/06)
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