P183
この世の中は見えないものが真実、実在なんですよ。宇宙は見えないんです。
見えるものはほんのわずかしかない。
というのは見えるものというのは眼球が感じる波動しか見えない。ところが波動というのは無限にあるんです。
P185
シカはシカの見ている世界があるわけでしょう。それを悠々と行くわけですね。
シカはシカの世界で生きているんだから、全然別の世界を生きているわけです。
そういうことを知らなければいけないというんですよ。
人間は人間社会だけがすべてだと思っている。それが間違いのもとだと言っているんです。
~中略~
茶わんがありますね。これは単なる茶碗なんです。
これに悪い茶碗もいい茶碗もない。
ただの茶碗です。それが真実でしょう。
これがいいとか、悪いとかいうのはこちらが決めることです。
その原理がわかったら、この世の中から悩みがなくなる。
葉室 頼昭 (著)
「神道」のこころ
春秋社 (1997/10/15)
自分が認識している世界以外に、自分が認識できない多くの世界があることを知らねばなりません。
自分の認識したものこそ真実であり、自分の見方、考え方こそ正しいと考えてはいけないのです。
~中略~
私たちは「主観」(自分ひとりの考えや感じ方)によって客観世界(対象)を認識しているのであって、客観世界は主観の反映であるということになります。
角田 泰隆 (著)
禅のすすめ―道元のことば
日本放送出版協会 (2003/03)
P178
「諸君の見られるように、人間の涙を科学的に分析すれば、多量の水分と少量の塩分とに分かれる。」 イギリスの科学者であり物理学者でもあったファラデーは、二本の試験管を示しながら学生たちに話しはじめた。
科学分析に、特にすぐれた業績を残した彼は、学生たちに、母親がわが子のために流した涙を分析して、見せていたのである。
人間の涙―かなしくて流す涙。うれしくて流す涙。くやしくて流す涙。―人間はいろいろな場面で、さまざまな思いで、涙を流す。
しかし、それがどんな場面でも、どんな思いで流す涙であっても、人間の涙は、ただ、多量の水分と少量の塩分とに分析されるだけだという。
彼は話を続ける。
「しかし、母親の涙は、けっしてそれだけのものではない。その奥には、分析してもなお分析しきれない愛情というものがあることを、諸君は忘れてはならない。」
わたしたちの住んでいる社会は、目に見えるものと、目に見えないものとによって成り立っている。そのうち、目に見えるものは、たいせつにされやすいが、目に見えないものは、つい忘れがちになるものである。
ファラデーは、人間の涙の分析を通して、目には見えないが、たいへんたいせつにしなければならないものがあることを、学生たちに教えたかったのではないだろうか。
みち (仏教の学習)
浄土真宗本願寺派教学振興委員会 (著), 浄土真宗本願寺派学校連合会 (著)
本願寺出版社 (1973/03)
P2
「日月星辰(せいしん)は 本より虚空に住すれども 雲霧蔽(へい)きし 烟塵(えんじん)映覆(えいふく)す 愚者はこれを視て日月なしと謂(おも)へり 本有の三身も またかくの如し」
(弘法大師 空海 「吽字義(うんじぎ)」
【現代語訳 太陽や月や星はもともと虚空にあるけれども、雲や霧によっておおいかくされて、煙やちりによって覆われることがある。 愚かな者はこれをみて、太陽や月がなくなってしまったと思う。もともとそなわっている仏心もまたこれと同様なのである】
ボクは坊さん。
白川密成 (著)
ミシマ社 (2010/1/28)
P139
天国にあこがれ、地獄をおそれるということが人間社会から消滅して以来、人間はひょっとすると偉大さというものをうしなったかもしれない。
すくなくとも幸福というこのえたいの知れぬものがかつて実感として実在をしたのに、いまではその正体をつかむことさえ難渋するようになっている。また人間が個々に自分を統御したり、他との関係を調節したりする方法もむずかしくなった。
街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P111
どこかで宗教学者が書いていたことですが、私たちは、見える世界と見えない世界の両方に、足を置いて生きている存在だというのです。
どんなにこの世のことしか信じないと考える人でも、心のどこかで、見えない世界、神仏の世界につながっていると。
仏教の僧侶やキリスト教の司祭など聖職者は、軸足を、六割見えない世界に置いていきていくのがよく、ふつうの、市井の人びとは、四割を見えない世界に置き、六割を見える世界に置いて生きるのが理想だと言っています。
これは、人の人生についても言えるのではないでしょうか。
生まれたばかりの赤ん坊は、見えない世界の感覚で、この世を生きています。それが歳を経るごとに、見える世界の部分が多くなり、もう見えない世界の記憶などまったく忘れてしまう。
それが、人生の後半になると、いままで影を潜めていた見えない世界とのかかわりがふたたびはじまり、自分の中の、見える世界と、見えない世界との割合が逆転してくる。そして、軸足が、徐々に見えない世界に移ってくるのではないでしょうか。
百歳人生を生きるヒント
五木 寛之 (著)
日本経済新聞出版社 (2017/12/21)
P207
P36
手持ちの計測機器では計量されないものは「存在しない」と断言する人たちは、その語の本当の意味での科学者ではありません。「何かがあるよな気がする」という直感を手がかりに、かすかな「ざわめき」を聞き取ろうとする人たちこそが自然科学の領域におけるフロントランナーたちなんです。
ですから、自然科学の先端で仕事をしている人たちは、因習的な意味では「いまだ存在しないもの」に対して心身のセンサーを最高度まであげて何かを感じ取ろうとしている。[存在しないもの」からのシグナルを聞き取ろうとすることは、私たちの世界経験にとって少しも例外的なことではありません。むしろ、私たちの世界を構築しているものは「存在しないもの」なんです。
~中略~
思考するというのも同じことです。思考するというのは「自分が語ること」を聞くということですから、「存在しないもの」とのかかわりなしには、僕たちは思考することさえできない。
「もう存在しないもの」を現在のうちに持ちこたえ、「まだ存在しないもの」を先取りする。そのふたつの仕事を同時に遂行することなしには、僕たちは対話することも思考することもできない。「存在しないもの」とのかかわりなしに、我々は人間であることができないのです。
ですから、人間的な学の始点が「存在しないもの」とのかかわりについての技芸であるのは論理的には自明のことなのです。
P44
文学研究者は「存在しないもの」を専一的に「存在しないもの」として扱っている。 その点では他の人文科学や社会科学よりはだいぶ「正気」の程度が高い。
どんなふうに人間は欲望を覚えるか、どうやって絶望するのか、どうやってそこから立ち直るのか、どうやって愛し合うのか・・・・・そういうことを研究するのが文学研究です。
だから、文学研究が学問の基本であり、それがすべての学術の真ん中に存在していなければいけない。僕はそう思っています。
最終講義 生き延びるための七講
内田 樹 (著)
文藝春秋 (2015/6/10)
最終講義 生き延びるための七講 (文春文庫 う 19-19)
- 作者: 内田 樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2015/06/10
- メディア: 文庫
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