宮沢賢治 「農民芸術概論綱要」のなかの「農民芸術の興隆」という一節
曽(か)つてわれらの師父たちは貧しいながら可成(かなり)楽しくいきてゐた
そこには芸術も宗教もあつた
いまわれらにはただ労働が生存があるばかりである。
宗教は疲れ近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教化芸術家とは親善若しくは美を独占し販(う)るものである
われらに贖(あがな)ふべき力もなく又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行きわれらの美をば作らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働をを燃やせ
ここにわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来つてわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ
これは賢治は羅須地人協会という会を始めたときの文章です。建治は農業をしながら芸術を語り、宗教を語る。そういう高い理念をもった集団をつくったんですが、失敗に終わった。けれども理念は正しい。
梅原猛の授業 仏教
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2002/01)
P225
近代になって、このような願い(住人注;四弘誓願の衆生無辺誓願度)を強く持ったのは宮沢賢治です。
宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という言葉は、そのことを示しています。
賢次のお父さんは仏教の会をやって、浄土真宗の教えを広めている。商売は質屋さんをやっていましたが、賢次にはそれがたえられなか った。
質屋さんというのは、東北の貧しい村の貧乏人をいじめることになる。それでありながら浄土真宗の信者だというお父さんに、心のなかで厳しい批判をもっていたんだと思います。
~中略~
往相廻向だけ強調する近代の浄土真宗には利他行が足りない。仏教の中心は利他行だ。
そう考えて、賢次は日蓮宗の信者になったのだと思います。
「法華経」のなかに常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という仏さんがあります。人からはでくのぼうだと思われて、軽く見られている。けれど も、どんなに馬鹿にされても合掌している。人のためにはどんなこととでもする。そういう常不軽菩薩が賢次の理想ですね。
日蓮には、積極的に人を日蓮宗の信者にしようとする折伏(しゃくぶく)と、周囲に対しておとなしくしようという摂受(しょうじゅ)と、両面の思想があります。
賢次は、日蓮宗の本質は折伏だ、現代は折伏のじだいだと考えたのだと思います。
でも、賢次のような恥ずかしがり屋に折伏はできないんですよ。その代わり彼は童話をつくって、人々を仏教に誘おうとした。
だから賢次の童話は、生きとし生けるものは、どんなに殺し合っていても、お互いに愛し合わなくてはいけないというものですね。場合によっては、賢次自身が生きとし生けるもののために自分の身を投げ出してもいいという捨身飼虎の信仰をもっている。「なめとこ山の熊」など、そういう心境 が伺えます。「衆生無辺誓願度」の教えの表れだと思います。
梅原猛の授業 仏になろう
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2006/03)
P149
0 件のコメント:
コメントを投稿