P10
落語「三方一両損」には<江戸っ子の生まれぞこない金をため>という川柳が出てくる。この噺、金太郎という神田白壁町の左官が、柳原(現在の秋葉原近く)で財布を拾ったところから始まる。
~中略~
一方、金太郎は大岡越前から、「なぜ吉五郎の申し出を受けないのか」と問われ、
「冗談言っちゃいけねえ」と怒り出す。「たった三両の金をネコババするようなしみったれな了見だったら、今ごろ棟梁に出世している」と言う。
「どうか出世するような災難には遭いたくねえ」と、毎日金比羅さまを拝んでいるというのである。誰もが欲しがる「金と出世」を回避するのが江戸っ子なのである。
~中略~
「金離れがよい」とは、金銭に執着しないという意味だ。金銭を稼がないという意味ではなく、金銭を大事にしないということでもなく、ありがたく思わない、という心持ちでもない。
払うべき金は決して惜しんだりせずに払う、そしていったん自分と縁がなくなったら深追いはしない、というのだ。このような考え方なら、すでに江戸時代中期の、「江戸っ子」概念の成立期に見られる。
P14
江戸っ子の特性は五つの要素で成り立っている。
「江戸城の近くで生まれ育った」「日本橋を見て育った」「金離れがよく物事に執着しない」「いきとはりを本領とする」「育ちがいい」
である。
~中略~
ちなみに「いきとはり」とはいわば反抗と風刺の精神である。
~中略~
金や出世が商人たちの価値観になりつつあった江戸時代、「金なんか要らない」という生き方は、世間に対するある種の反抗精神である。しかも家が裕福なら、金にがつがつしない。店を持っているなら、商売仲間や地域との関係や社会的信用が何より大切なので、金払いはよい。
江戸っ子精神はそのような、余裕のある江戸の商人から出現したのである。
P19
「質素倹約」こそ商人倫理だったが、しかしここには、金持ち、しかしここには、金持ち、いや金の入って来る者は人を助け、ケチにならず、金を循環させる者であるべきで、そのほうがかっこいい、という美意識が見える。
つまりは、宵越しの銭を持たないとは、じつは自分のために贅沢をするというだけの意味ではなく、他人のためにも金を使ってしまう、という意味なのである。それが、巡り巡って自分をいかす。
宵越しの銭を持たない生き方とは、江戸っ子にとってサバイバルの方法であり、最後には自分に返ってくるのだった。江戸時代はそういういみでも、「循環の時代」である。
P22
ほかの多くの大岡裁きがそうであるように、これ(三方一両損)も大岡越前の裁判ではなかった。「板倉政要」に見える、京都所司代・板倉勝重のさばきだったのである。
ということは江戸の話ではなく京都の話であり、江戸っ子の特徴どころか、京都人も「受け取る」「受け取らない」でもめたようだ。
~中略~
この場合は、拾った側が貧者で、落とした側は裕福な町人だった。そこに富者の貧者への「ほどこしの精神」という、ヨーロッパと同じ精神が見られる。宵越しの金はたっぷり持っている人の話だった。
ところがさらに調べていたら、なんとこれは京都の裁判の話でもなく、もとはイソップ物語だという説があるのを知った。
~中略~
もともとは一二世紀より前のユダヤの話(住人注;もともとは悪人ばかり出てくる話が日本に入ってきて善人ばかり出てくる話に転換している)らしい。
P24
「稼ぎすぎない」というのが儒教的な倫理観であるとすると、「欲を抑える」というのが仏教的な倫理観である。
儒教仏教両方に共通するのが、商人の「社会的貢献」だ。
仕事とは「私する」ものではなく、社会を豊かにするものなのである。「宵越しの銭を持たない」の「銭」は、職人達にとっては仕事の結果である。
その仕事の結果を自分のためだけに使わない、人と一緒に生きてゆくのだから、というのが、この言葉の意味だ。
田中 優子 (著)
江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか? 落語でひもとくニッポンのしきたり
小学館 (2010/6/1)
江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか? 落語でひもとくニッポンのしきたり (小学館101新書)
- 作者: 田中 優子
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2010/06/01
- メディア: 単行本
P232
孔子の言わんと欲する所は、
道理をもった富貴でなければ、
むしろ貧賤の方がよいが、
もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならば
あえて差支えないとの意である。
「論語と算盤」仁義と富貴
P238
金それ自身に善悪を判別するの力はない、
善人がこれを持てば善くなる。
悪人がこれを持てば悪くなる。
「論語と算盤」仁義と富貴
渋澤 健 (著)
巨人・渋沢栄一の「富を築く100の教え」
講談社 (2007/4/19)
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