伊予松山藩十五万石の久松家は家康の異兄弟の家系で、徳川の親藩であった。最初は家中に三河派などもいて武張った風もあったかもしれないが、次第に伊予ぶりになり、江戸後期からは俳諧がさかんになって、たとえば武事や政論を好む土佐藩などとは別の知的風土を形成した。
この藩は、幕末から維新にかけての変動期に、ひどいめに遭った。
幕府が長州征伐をおこしたとき、ほとんどの藩は理由をかまえて参加しなかったが、松山藩は律儀にもばく大な軍費を捻出して参戦し、負けてしまった上に、その律儀がたたり、戊辰のときには会津・桑名の両藩とならんで「朝敵」にされた。
会津藩は幕末の京都で長州勢力と対決したが、伊予松山藩はなにもしていない。鳥羽伏見のときにも会津・桑名は松山を疎外し、最先鋒に出さず、はるかに後方の摂津梅田村(いまの大阪駅付近)に置き、後方警備をさせた。
それでも「朝敵」として討伐軍をさしむけられた。「官軍」の土佐藩兵がやってきて松山城を包囲したが、この藩は戦わずに恭順した。そこで土佐藩は松山城を受領し、城下や領内に対して占領政治を布いた。戊辰でこの種の屈辱をうけた藩として、会津藩、越後長岡藩があり、それに伊予松山藩があるが、松山の場合、前記二藩とちがい、いっさい抵抗しなかった。
~中略~
こういうことが伊予松山人にとって、激発や怨恨のたねにならなかったというのは、ふしぎなほどである。伊予は南海道のなかでも気候がよく、地味も肥え、古くから瀬戸内海文化が沈殿して人間の精神も単純でない。
街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)
P12
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