P12
私どもは、人類の文明史からみて、ロシア人によるロシア国は、きわめて若い歴史をもっていることを重視せねばならないと思います。ロシア人によるロシア国家の決定的な成立は、わずか十五、六世紀にすぎないのです。
若いぶんだけ、国家としてたけだけしい野性をもっているといえます。
P15
ロシア人は、国家を遅くもちました。ロシアにおいて、国家という広域社会を建設されることが、人類の他の文明圏よりもはるかに遅れたという理由の一つは、右のように、強悍(きょうかん)なアジア系遊牧民族が、東からつぎつぎにロシア平原にやってきては、わずかな農業社会の文化があるとそれを荒しつづけた、ということがあります。文化も他の生物学的組成と同様、しばしば遺伝します。ロシア人の成立は、外からの恐怖をのぞいて考えられない、といっていいでしょう。
P16
ともかくも、中国のように長城や防御力をもつ都市をつくるにいたらず、また西方のローマ文明社会のように城壁と石造城館をもつ都市国家をつくるということもしなかったということが、ロシア国家史の開幕を遅らせ、またその遅い開幕を内葉をも特異なものにしたといえます。
~中略~
九世紀になってやっとウクライナのキエフの地に、ロシア人の国家(キエフ国家)ができたということは、ごく小さな規模とはいえ、ロシア史を見るうえで、重要なことだと思います。
~中略~
九世紀に樹(た)てられるキエフ国家の場合も、ロシア人が自前でつくったのではなく、他から国家をつくる能力のある者たちがやってきたのです。
やってきたのは、海賊を稼業としていたスウェーデン人たちでした。かれらは海から川をさかのぼって内陸に入り、先住していたスラヴ農民を支配して国をつくったといわれています。
P26
(住人注;キプチャク汗国の消滅後)やがてモスクワを中心に、ロシア人のロシア国家がふくらんでゆくのです。さまざまな曲折をへて、ロマノフ朝という専制皇帝を戴く王朝が成立するのは、十七世紀のはじめでした。日本でいえば江戸初期―大坂落城の直前のことです。
ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)
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