一七 子、川の上( ほとり )に在( いま )して曰わく、逝くものは斯( か )くの如きか、昼夜を舎( す )てず。
~中略~
川岸に立っておられた先生がいわれた。
「 過ぎ去ってゆくものはみなこのとおりなのだな。昼も夜もすこしも休まない 」
論語
孔子 (著), 貝塚 茂樹
中央公論新社 (1973/07)
P249
※この川のほとりにおける孔子の詠嘆は、たいへん有名な文句である。ふつうは朱子の新注をもとにして、川の流れが混々として昼夜休まないように、人間もまたそのように不断に進歩してやまないようにせねばならぬというふうに説かれてきた。
吉川幸次郎博士がくわしく論じられているように、古注では人間が川の流れのように、どんどん年をとってゆくことを嘆いたとみる説が多く、六朝の詩人たちもそういう故事としてこの詩をつかっている。~後略
[1] ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。
世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
[2]玉敷の都のうちに、棟(むね)を並べ、甍(いらか)を争える、高き、賤しき、人の住ひは、世々を経て、尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。
或いは去年焼けて、今年造れり。或は大家亡びて、小家となる。いにしへに見し人は、二三十人が中に、わづかに一人二人なり。朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡に似たりける。
方丈記 現代語訳付き
鴨 長明 (著), 簗瀬 一雄 (翻訳)
角川学芸出版; 改版 (2010/11/25)
P15
一七 人生の時は一瞬にすぎず、人の実質(ウーシアー)(18)は流れ行き、その感覚は鈍く、その肉体全体の組み合わせは腐敗しやすく、その魂は渦を巻いており、その運命ははかりがたく、その名声は不確実である。
一言にして言えば、肉体に関するすべては流れであり、霊魂に関するすべては夢であり煙である。人生は戦いであり、旅のやどりであり、死後の名声は忘却にすぎない。
しからば我々を導きうるものはなんであろか。一つ、ただ一つ、哲学である。それはすなわち内なるダイモーンを守り、これの損なわれぬように、傷つけられぬように、また快楽と苦痛を統御しうるように保つことにある。
またなにごともでたらめにおこなわず、なにごとも偽りや偽善を以てなさず、他人がなにをしようとしまいとかまわぬよう、あらゆる出来事や自己に与えられている分は、自分自身の由来するのと同じところから来るものとして、喜んでこれを受け入れるよう、なににもまして死を安らかな心で待ち、これは各生物を構成する要素が解体するにすぎないものと見なすように保つことにある。
もし個々のものが絶えず別のものが絶えず別のものに変化することが、これらの要素自体にとって少しも恐るべきことでないならば、なぜ我々が万物の変化と解体とを恐れようか。それは自然によることには悪いことは一つもないのである。
P255
(18) 質量(受動的な物体)のこと。四巻註(17)参照。
マルクス・アウレーリウス 自省録
神谷 美恵子 (著)
岩波書店 (2007/2/16)
P33
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