P61
「命を知らざれば以て君子たること無きなり」(住人注;「論語」堯日篇)
「命」というのは普通「いのち」と言っておりますが、普通に「いのち」というのは「命」のごく一部にすぎない。
「命」という言葉について誰もがまず直覚することは、人間の恣意、ほしいままな気持ち、人間の無自覚な本能や衝動というようなものではどうにもならない、絶対的、必然的な何かの意味をこの「命」で表わしていることである。
だから同じ「命」でも命令といえば、違反することを許されない権威を持った指図ということになる。我々の生命というものは、なぜ生命というか。生の字になぜ命という字を付けるかというと、我々の生きるということは、これは好むと好まざると、欲すると欲せざるとにかかわらない、これは必然であり、絶対なものである。「おれはどうして生まれたんだろう」というのはナンセンスである。
それは個人の妄想にすぎない。西洋哲学でいうと、アブソルート absolute、先天的、あるいは絶対的なものである。そこでその絶対性、必然性、至上性、それを表わすのに命(めい)というものを以てして、生命というのです。
それでわかるでしょうが、「命名」ということはどういうことか。
これも浅薄に考えて、命名とは名を付けることだと考えるのですが、そんな簡単なものではない。命名というからには、この子供にはこういう名でなければならない、この名がこの子供に絶対的な意味を持っている、この子にはこの名のごとく生きねばならない。こういう必然、あるいは絶対の意味をもって付けて初めて命名ということができる。
P67
人生そのものが一つの「命」である。その「命」は光陰歳月と同じことで、動いて止まないから、これを「運命」という。
そこで自然界の物質と同じように、その法則をつかむと、それに支配されないようになる。自主性が高まり、創造性に到達する。つまり自分で自分の「命」を生み、運んでゆけるようになる。
人間は学問修養しないと、宿命的存在、つまり動物的、機械的存在になってしまう。よく学問修養すると、自分で自分の運命を作ってゆくことができる。
P68
我々の「命」をよく「運命」たらしめるか、「宿命」におとしむるかということは、その人の学問修養次第である。これが命を知る「知命」、命を立つる「立命」の大切な所以である。
人間はよく学問修養をしないと、宿命的存在、つまり動物的、機械的存在になってしまう。
よく学問修養をすると、自分で自分の運命を作ってゆくことができる。
P86
即ち、自分で自分の「命(めい)」を創造することができるようになる。それを「命(めい)は吾より作(な)す」という。
知命と立命―人間学講話
安岡 正篤
(著)
プレジデント社 (1991/05))
P108
孟子の世界は<命(めい)>が広くいきわたっている。命には、天命、運命、宿命などさまざまなことばがあてられてきた。しかし、孟子にとっての命は、人生の偶然性を意味することばだった。
吉凶禍福は人のコントロールがおよばぬところで起こる。命が伝えているのは、(求人などの)棚ぼた式のうまい話や(死別などの)悲しいできごとはたとえどんな計画や予定を立てていても起こるということだ。
~中略~ 孔子は愛弟子の夭折という悲劇を経験した。孟子は、前にも触れたが、後年になって斉(せい)の王に利用され、人生の苦境に立たされた自分に深い影響を与えるできごとも自分ではコントロールできないという事実をやっとの思いで受け入れた。
最良の計画も精いっぱい慎重にくだした決断も、不条理でときに悲劇的なできごとが起らない保証にはならない。
世界が安定していると解釈すると、文化的に認められた二つの道―運命を信じるか、自由意思を信じるか―の一方へと導かれることになる。運命論者なら、なにが起ろうと、神性なり宿命なりの定めによって避けようがなかったのだと考えるだろう。あるがままの宇宙を受け入れようと努力する。
自由意思を信じる人なら、みずから運命を支配していると考え、手をこまねいてみすみす悲劇に見舞われるのはがまんできないだろう。左遷、離婚、死別など直面した場合、責任を感じてぼろぼろになるかもしれないし、まったく動じることなくはやばやと気持ちを切りかえるかもしれない。これは人生の無常を否定した受け身の反応だ。
しかし、孟子は命についてこう言っている。”手かせ足かせをはめられて死ぬのは、正しい運命ではない”【18】
手かせ足かせをはめられて死ぬとは、身に降りかかった事態に正しく反応できなかったことを意味する。悲劇に完全に打ちのめされてしまうにしろ、できごとを甘んじて受け入れるにしろ、どちらの反応も、崩れかかった塀の下に立ったまま、その塀の下敷きになって死ぬのが自分の運命だと認めるのと変わらない。
しかし、もっと違う反応の仕方がある。命を方向づけ、自分の手で将来をつくることのできる反応だ。孟子はこう説いている。”命を心得た人間は、崩れかかった危険な塀の下などには立たないものだ。なすべきことに力を尽くしてから死んでこそ、天命をまっとうしたことになる”【19】
転変きわまりない世界に生きるとは、人の行為がかならず報いられる道義にかなった安定した宇宙に生きてはいないと受け入れることだ。本物の悲劇が起きるのを否定してはいけない。しかし同時に、自分の身になにが降りかかろうと、常に驚きに備え、どう対処するか学ばなければならない。
その努力をつづければ、たとえ悲劇に遭遇した場合でも、世界は気まぐれであり完璧に規定することはできないと受け入れられるようになる。
そして、これこそが変転きわまりない世界に期待できる部分だ。~中略~
運命に直面したとき、完全に打ちのめされた気分になるべきではないし、とにかくいいほうへばかり考えるのもよくない。ポジティブシンキング論者は、どのような困難な状況にあってもすべてなんとかなると断言する。しかし、この場合がはらむ危険性は、受け身な態度になってしまうことだ。できごとは起き、それはコントロールできないが、行動を起こすと選択することはできる。崩れかかった塀から離れ、自分の命に反応して、それに応じて将来を形づくればいい。
命は、身の上に降りかかる悲劇だけにとどまらない。よいことの場合もある。思いがけないチャンス。してみたかったことができる予想外の機会、人生の道筋を変えることになる相手との偶然の出会い。あまり計画にこだわりすぎると、こうした好機をあえて逃してしまう。
※18絰梏(つみうけ)て死するものは、正命(せいめい)にあらざるなり。
※19 命(めい)を知る者は、巌墻(がんしょう)の下(もと)に立たず。その道を尽(つ)くして死する者は、正命(せいめい)なり。
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早川書房 (2016/4/22)
P120
「論語」(憲問篇)は「孔子の弟子の公伯寮(こうはくりょう)が、同じ弟子の子路が季孫(きそん)(魯の三卿の一人)に用いられているのを妬(ねた)んで讒訴(ざんそ)したことがあった。
そのとき孔子が知ったのは、聖賢の道が正しく行われるのは天の命であり、廃(すた)れるのもまた天の命であるということだった」(~中略~)と記し、「孟子」(尽心上篇)も「天命でないものはない」(~中略~)と述べている。 このように、孔子と孟子がともに「正しい道の興廃、世の中の治乱(ちらん)は、すべて天の命」といっていることからも察せられるように、「命」とは「天が行うことの総称」であり、「理」はその命の「体」(本体)なのである。
「易経」(説卦伝(せっかでん))にこんな一文が見える。
「その昔、聖人が易を作るにあたって、「性命(せいめい)の理」(人の本性と天の命じる道理)に順応させたいと考えた。そこで、天の道を立てて「陰」と「陽」とし、地の道を立てて「柔」と「剛」とし、人の道を立てて「仁」と「義」とし、三才(さんさい)(天地人)を兼ね合わせて「両(りょう)」とした」(~中略~)
陰陽、剛柔、仁義と分かれてはいるが、天地人の究極の道理は一つである。
この「性命の理」を、身をもって示しているのが聖人なのだ。そのおかげで、「人が何も為さずとも、世の中が自然にうまく治まる」(無為にして治まる)のである。
※命と理 中国では、占いの一つ「四柱推命(しちゅうすいめい)」を「命理」といっている。
※性命の理 「中庸」は天の命を「性」、性に従うのを「道」、道を修めるのを「教え」という」(天の命之(これ)を性と謂(い)ひ、性に率(したが)ふ之を道と謂ひ、道を修むる之を教(おしへ)と謂ふ)としている。
※無為にして治まる 荘子(本名は荘周)の思想「無為(むい)自然」。荘子は、孔子の弟子の「曾子(そうし)」と混同しないために名前は「そうじ」、著書は「そうし」と読む。孟子と同時代人(春秋戦国時代)で、老子とともに「老荘思想」と呼ばれている。荘周の著「荘子」は、内篇・外篇・雑篇の計三十三篇より成る。
P121
私が前述した「書経」(康誥篇)も、「理に逆えば、天命が変化して滅んでしまう」という文意の教えである。だから、「天の命は、常に一定というわけではない」(惟(こ)れ命(めい)、常に于(おい)てせず)なのである。このことを手本にして「理」に従うなら、今の時代でも天命に適うようにできるのだ。
では、理とはなにか。天地はもとより、人、野獣、草木にいたる万物は、それぞれ分かれて道を行なっているが、その道に備わっている「体」(本体)を仮に名づけて「理」(道理)といっているのだ。
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