武士の心とは何かと問いつめてゆくと、たいていは、ただ死ということについてよく覚悟しておくのだと答えがあるだろう。
だが、死ぬということぐらいなら、僧侶でも女でも、百姓より下の者でさえちゃんとわきまえているのであり、なにも武士だけに限っているわけではない。義理を知り、恥を思い、死を思い定めることにおいては武士も武士でない者も、そこに差のあるものではないのだ。
武士が兵法を実行するこころは、何ごとにおいても他人に勝れているところが第一であり、個人対個人の闘いに勝ち、数人の戦に勝ち、主君のため我身のために、名をあげ身を立てようとする。これは兵法の徳によってこそ可能になるのである。」
(地の巻・序)
奈良本 辰也 (著)
宮本武蔵 五輪書入門
学習研究社 (2002/11)
P57
祖母はまたとなくやさしい声で「住むところはどこであろうとも、女も男も、武士の生涯には何の変わりもありますまい。御主に対する忠義と御主を守る勇気だけです。遠い異国で、祖母のこの言葉を思い出して下され。
旦那さまには忠実に、旦那さまためには、何ものをも恐れない勇気、これだけで。さすればお前はいつでも幸福になれましょうぞ」
杉本 鉞子 (著), 大岩 美代 (翻訳)
武士の娘
筑摩書房 (1994/01)
P119
「小姫」は、秀吉が身内として大切に育ててはいても、実際には血のつながりのない養女である。
しかも長丸は、「小姫」に愛情すら抱いていないだろうし、家康は一度も面識がなかったかもしれない。
そのような「小姫」を秀吉が人質にとったところで効果があるのか、と疑問に思われるとしたら、それは武士の世間を知らないからであり、武士の行動理念をぬきにして理解しようとするからである。
長丸を人質にとるよりは、よほど効果があるといってもよい。血のつながった息子の命は犠牲にできても、義理のある妻の命は犠牲にしてはならないのである。
小牧・長久手合戦後に、秀吉から朝日を「妻」に、大政所を「人質」として送り込まれた家康が、上洛を決断するに際して、もし切腹するような事態が起きた時には、「人質」の大政所を殺し、「妻」の朝日は生かして秀吉のもとに送り返せ、と指示したという「三河物語」の話は有名である。
~中略~
つまり、妻(「女房」)を殺して自分が腹を切ったということになれば、異国の地までも外聞を失い、末世までもその悪評が伝えられるからであった。
ここには、自己の死の復讐のために妻を殺害するようでは、武士の面目が立たないとする通念の存在が確認できる。
~中略~
要するに、政略結婚で嫁いだ妻は、実質的には人質と同様に裏切りの代償や復讐の念からいつ命を奪われるともしれない境遇にあったが、それを回避させたのは、ひとたび縁を結んだ妻の命は義理があるので守らねばならないとする武士の面目であり、そうした二面性ものとで人質の慣行が維持されていたのである。
福田 千鶴 (著)
江の生涯―徳川将軍家御台所の役割
中央公論新社 (2010/11)
P95
福田 千鶴 1961年(昭和36年)、福岡県に生まれる。九州大学大学院文学研究科博士後期課程中途退学。博士(文学、九州大学)。専攻、日本近世政治史。東京都立大学人文学部助教授などを経て、九州産業大学国際文化学部教授
P59
士としてのあるべき姿については、「礼記(らいき)」(曲礼(きょくれい))に「四十を強(きょう)と曰ふ、仕(つか)ふ」とあり、同書の注釈書「礼記大全」は「四十歳になったら、志を強く立てて、利害に心を動かさないようにし、運不運・幸不幸も気にせず、出仕すべきである」(四十は志気賢定(けんじょう)。強く立ちて反(さから)わず、利害に奪われず、禍福を牀(おそ)れず、以て出(い)でて仕(つか)ふべし)とする永嘉戴(えいかたい)の注を記している。
※禍福を牀(おそ)れず 岩波文庫は「牀(うれ)へ」としている。
※四十を強(きょう)と曰ふ、仕ふ。「生まれてから十年が経った者を「幼」といい、学習し始める。二十歳を「弱(じゃく)」といい、冠をかぶって成人となる(弱冠の起源)。三十歳を「壮(そう)」といひ、妻をめとる。
四十歳を「強」といい、仕事で一人前となる。五十を「艾(かい)」といい、長として上に立ち、大勢の人を使う。六十を「老」(住人注;耆?)といい、自分では動かず、人を指示して使う。七十を老といふ、後継者に仕事を伝える。八十歳、九十歳を耄(もう)という」
(人生(う)まれて十年を幼(よう)と曰ふ、学ぶ。二十を弱と曰ふ、冠(かんむり)す。三十を壮(そう)と曰ふ、室あり。四十を強と曰ふ、仕(つか)ふ。五十を艾(かい)といい、官政に服す。六十を耆といい、指(さして)使(つか)ふ。七十を老と曰ひ、伝(つた)ふ。八十九十を曰ふ)
P60
士(し)の道は、何をおいても、まず心を知って志を決めることだ。「士とは何を心がけたらよいのか」(士は何をか事(こと)とす)と墊(てん)(斉の王子)に尋ねられた孟子は、「高尚な志を持つことだ」(志を尚(たこ)うす)と答えている。
「高尚な志とは、どういうことか」(何をか志を尚うす)と王子がさらに問うと、孔子はこう続けたと「孟子」(尽心上篇)は記している。
「「仁義」に徹することだ。たった一人でも罪のない人間を殺したら、そこに「仁」はない。自分の所有物でないものを奪い取るのは、「義」ではない。自分の拠って立つ信念は何かといえば、それは「仁」である。
進むべき道はどこかといえば、これも「義」である」(孟子曰く、志を尚(たこ)うす。曰く、何をか志を尚うすと謂(い)うか。曰く、仁義のみ。一(ひとり)にても罪なきを殺すは、仁に非(あら)ず。其の有(ゆう)にあらずして之を取るは、義に非ず。居(きょ)悪(いづ)くにか有る、仁是(こ)れなり。路(みち)悪(いづ)くにか有る、義是れなり)
同じく「孟子」(告子上篇)にも「命も義も守りたいが、命と義のどちらかを選ばないといけないなら、私は生を捨てて義を取る。よって、死を憂える思いが避けられないのだ」(生を舎て義を取らん。<中略>故に患(うれえ)も辟(さ)けざる所有るなり)とある。
武士たる者は、このことをじっくりと吟味すべきである。だが、世の中には、「武芸に励むだけが武士の道」と心得違いをしている者も多い。
真の志がない輩は、士の中にいれるべきでないのだ。「論語」(泰泊篇)に、「周公のような才能に恵まれたとしても、人柄が傲慢で吝(けち)なら、ほかにどんな取柄があったとしても目を向けるまでもないことだ」(子曰く、周公(しゅうこう)の才(さい)の美(び)有りといえども、驕(おご)り且(か)つ吝(やぶさか)ならしめば、其の余は観(み)るに足らざるのみ)
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