P109
法律を作ったり、政治の方針を決めたりする場合に、みんなが違った意見を主張し、お互の判断を固執して譲らないということになると、いつまでたっても結論に達することができない。
各人の考えは尊重しなければならないが、さればといって、互に対立するどの考えにも同じように賛成し、甲の意見ももっともだ、乙の主張にも理由があると言ってばかりいたのでは、1つの方針でもって実際問題を解決することは不可能になる。
そこで、民主主義は多数決という方法を用いる。
みんなでじゅうぶんに議論をたたかわせたうえで、最後の決定は多数の意見に従うというのが、民主政治のやり方である。~中略~
そうして、一度決めた以上は、反対の考えの人々、すなわち、少数意見の人々もその決定に従って行動する。それが多数決である。多数による決定には、反対の少数意見の者も服するというのが、民主主義の規律であって、これなくしては政治上の対立は解決されず、社会生活の秩序は保たれえない。
P110
実際には、多数で決めたことがあやまりであることもある。少数の意見の方が正しいこともある。むしろ、少数のすぐれた人々がじっくりと物を考えて下した判断の方が、おおぜいでがやがやと附和雷同する意見よりも正しいことが多いであろう。
いや、国民の中でいちばん賢明なただひとりの考えが、最も正しいものであるということができるであろう。それなのに、なぜその少数のすぐれた人々、最も賢明なただひとりの人の意見を初めから採用しないで、おおぜいにかってな意見を言わせ、多数決というような機械的な方法で、その中のどれか一つに決めるというやり方を行なう必要があるのであろうか。
多数決に対しては、昔からそういうもっともな疑問がある。いや、単に疑問があるばかりでない。それだから、多数の意見によって船を山にあげるような民主政治をやめて、最も賢明な人に政治の実権を任せてしまう方がよい、という議論がある。その中でも最も有名なのは、ギシリアの哲学者プラトンの唱えた哲人支配論である。
~中略~
けれども、プラトンの理想国家論は、政治の理想であるかもしれないが、これをそなまま現実に行おうとすると、かならず失敗する。
なぜならば、最も賢明だと称する人に政治の全権をゆだねて、一般の国民はただその哲人の命令に服従してゆけばよいというのは、けっきょくは独裁主義にほかならないからである。 独裁主義によれば、独裁者は国民の中でいちばん偉い人だから、その人の意思に従っていればまちがいはないという。しかし、独裁者が国民の中でいちばん偉い、いちばん賢明な人物であるということは、いったいだれが決めるのであろうか。
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それでは、日本はどうであろうか、日本人は、自分たちでほんとうの政治上の自覚を持つ前に、戦争の結果として最も広い政決参与の権利を得た。
独裁主義は追放されて、万事が選挙と多数決とで行なわれる世の中となった。 これで、これからの日本の政治が明るく築きあげられてゆくであろうか。もしも国民が、今までのように政治的に無自覚であれば、それはおぼつかない。
これに反して、みんなが勉強して政治に興味をもち、自分たちの責任と努力をもって多数決の原理を正しく運用してゆくならば、やがて焦土の上にも明朗な世の中が築きあげられるであろう。
民主主義
文部省 (著)
KADOKAWA (2018/10/24)
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