外(そと)にねがう百の思按(しあん)を打捨(うちすて)よ
良知(りょうち)の外(ほか)に利(り)も徳(とく)もなし
(福本子を送る)
藤樹四十歳の作。歌の前文に、「心の学びには利害の拘攣(こうれん)をとかざれば良知に至りがたし」云々とある。
心学をおさめるには、わが身にまとっている利害得失といったよろい兜を取り除かなければ、良知にいたることはむつかしいのだと。
つまり、藤樹の説く学問は、それによってなんらかの社会的地位とか、報酬を得ようと考えることは、おおきな間違いである。
歌の「外にねがう百の思按」というのは、まさしくそれにあたる。そのような損得におおわれた万欲の自分を打ち捨てよ。禅語であらわすと、放下(ほうげ)せよということである。
孔子、曽子、孟子の学問に一貫しているものは、「いにしえの学者はおのれのためにし」(「論語」憲問篇)であり、「おのれを脩(おさ)めて人を敬す」(同)とあるように、わが身の徳を日々あらたにして磨くことにあった。
藤樹もまた、まったく私見も入れずに、孔孟の教えを門人たちに説きひろめた。良知を信じて、それ以外に利益も徳もないのだ。
中江藤樹 人生百訓
中江 彰 (著)
致知出版社 (2007/6/1)
P144
私の考える「究極の学問」は、孟子のいう、「心を盡(つく)して性を知り、性を知れば天を知る(盡心知性知天(じんしんちせいちてん))につきる。
「天を知る」とは、「天」すなわち「孔孟の心」なので、「孔孟の心を知る」ということである。~中略~ ※孔孟の心 「孟子」(尽心上篇)に「其の心を尽す者は、其の性を知るべし。其の性を知らば、則ち天に至らん」(惻隠(そくいん)・恥悪(しゅうお)・恭敬・是非の四端(したん)の心を窮めると、仁義礼智の本性がわかる。本性を知ること、それが即ち天命を知ることにつながる)。「天の命ずるを、これ性と謂う」(「中庸」)。
石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)
石田梅岩 (著), 城島明彦 (翻訳)
致知出版社 (2016/9/29)
P117
石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)
- 出版社/メーカー: 致知出版社
- 発売日: 2016/09/29
- メディア: 単行本
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